御由緒

浅間大社は、富士山の噴火を鎮めた御神徳により崇敬を集め、富士山信仰の広まりと共に全国に祀られた1300余の浅間神社の総本宮と称されるようになりました。

御祭神

主祭神
木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)(別称:浅間大神(あさまのおおかみ))
相殿神
瓊々杵尊(ににぎのみこと)
大山祇神(おおやまづみのかみ)

 「日本(ひのもと)の 大和の国の 鎮めとも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる 富士の高嶺は 見れど飽かぬかも」と万葉の歌人高橋蟲麻呂が詠んだ清らかで気高く美しい富士山。この霊山を御神体として鎮まりますのは、浅間大神・木花之佐久夜毘売命にまします。
木花之佐久夜毘売命は、大山祇神の御息女にして大変美しく、天孫瓊々杵尊の皇后となられた御方です。命はご懐妊の際、貞節を疑われたことから証を立てるため、戸の無い産屋を建て、周りに火を放ち御出産になられました。そして、無事3人の皇子を生まれたという故事にちなみ、家庭円満・安産・子安・水徳の神とされ、火難消除・安産・航海・漁業・農業・機織等の守護神として全国的な崇敬を集めています。
木花という御神名から桜が御神木とされています。境内には500本もの桜樹が奉納されており、春には桜の名所として賑わいます。また、申の日に富士山が現れた故事から神使いは猿といわれています。

起源

 「富士本宮浅間社記」によれば、第7代孝霊天皇の御代、富士山が大噴火をしたため、周辺住民は離散し、荒れ果てた状態が長期に及んだとあります。第11代垂仁天皇はこれを憂い、その3年(前27)に浅間大神を山足の地に祀り山霊を鎮められました。これが当大社の起源です。
その後は姫神の水徳をもって噴火が静まり、平穏な日々が送れるようになったと伝えられています。この偉大な御神徳は、万人の知るところとなり、篤い崇敬を集める事となりました。また、富士山を鎮めるため浅間大神をお祀りしたのは当大社が最初であり、全国にある浅間神社の起源ともなっています。

山宮鎮座

山宮斎場古木・磐境を通して真正面に富士山を拝する    最初に祀られた「山足の地」は、特定の地名を指すのではなく、富士山麓の適所を選んで祭祀を行った事を示すと考えられています。特定の場所に祀られるようになったのは、山宮(現在の鎮座地より北方約6キロ)にお祀りされてから後のことです。山宮は社殿が無く古木・磐境を通して富士山を直接お祀りする古代祭祀の原初形態を残す神社で、祭祀形態の変化をうかがい知ることが出来ます。
社記によれば、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国の夷(えびす=賊徒)を征伐するため駿河国(するがのくに)を通られた際、賊徒の野火(野原で四方から火をつけ攻められること)に遭われました。尊は、富士浅間大神を祈念して窮地を脱し、その賊徒を征伐されました。その後、尊は山宮において篤く浅間大神を祀られたと伝えられています。

大宮遷座(現在地)

湧玉池(国指定特別天然記念物) 大同元年(806)坂上田村麿は平城天皇の勅命を奉じ、現在の大宮の地に壮大な社殿を造営し、山宮から遷座されました。
富士山の神水の湧く地が御神徳を宣揚するのに最もふさわしかった為ではないかと考えられます。

朝廷の崇敬

 当大社は、朝廷より篤い尊崇を受けてきました。
延喜の制では名神大社とされ、一宮制では駿河国一宮(するがのくにいちのみや)として勅使の奉幣・神領の寄進を受けました。神階については『文徳実録』に仁寿3年(853)従三位を加うとあるのを初見として、その後順次階位を授けられ、永治元年(1141)には正一位を授与されています。

武家の崇敬

歴代武将の事跡も多数ありますが、中でも特に篤い崇敬を寄せたのは、源頼朝・北条義時・武田信玄勝頼親子・徳川家康でした。

流鏑馬祭 源頼朝公は、建久4年(1193)富士山麓において巻狩りを行った際、流鏑馬を奉納されました。現在、流鏑馬祭としてとして伝えられています。そのほか社殿の修復なども行いました。

武田信玄願状 武田信玄・勝頼親子は当大社を篤く崇敬し、神領の寄進、社殿の修造などを行いました。当大社には、信玄の願状をはじめ武田家奉納の品も多く残っており、崇敬の一端を知ることができます。ちなみに、境内にあるしだれ桜は信玄の寄進とされ、信玄桜と呼ばれて親しまれています。

御社殿 徳川家康公は、関ヶ原の戦いに勝利した御礼として、本殿・拝殿・楼門をはじめ30余棟を造営し、境内一円を整備しました。現在、本殿・拝殿・楼門等が残っており、本殿は国指定重要文化財、拝殿・楼門は県指定文化財となっています。また、富士山8合目以上を境内地として寄進する等しました。

庶民の信仰

 恐ろしい噴火を繰り返す富士山を、鎮め奉る浅間大神への敬慕の念によって信仰され、その頂きは浅間大神の御神域として尊ばれてきました。富士山の噴火が収まるに従い、その敬慕の念が富士登山という形に変化していきました。
平安時代、都良香(みやこのよしか)(834~879)の著した『富士山記』には、富士山頂上の様子が書かれています。

山に神あり。浅間の大神と名づく。この山高く雲表を極むること、幾丈なるをしらず、頂上に平地あり、広さ一里ばかり。その頂の中央窪く下りて、体炊甑の如く、甑の底に神池あり。池中に大石あり。石の体驚奇にして、宛ら蹲虎の如し。亦その甑底を窺へば湯の沸騰するが如く、その遠きにありて望む者は、常に煙火を見る。 ・ ・ ・中略 ・ ・ ・宿雪は春夏も消えず。(原文は漢文)

現在の山頂の状況と似た点が多く、早くから富士登山が行われていたことが分かります。同書には役居士すなわち役小角(えんのおづぬ)が富士山頂を極めたという伝説ものっており、信仰登山の兆しも有りますが、登山はまだ珍しい事であったと思われます。

絹本著色富士曼荼羅(重要文化財)部分 久安5年(1149)末代上人が、浅間大神の本地仏が大日如来との本地垂迹説により、富士山頂上に大日寺を建てるなどし、富士登山信仰の素地となったと思われます。大日寺は程なく頽廃しましたが、室町時代には修験者による富士登山が盛んになると、再び大日堂・薬師堂などの祀堂が建てられ、崇敬されるようになりました。当大社所蔵の絹本著色富士曼荼羅図(重要文化財)には、登山の情景が細かく描かれており、その様子を知ることができます。これによっても当時既に信仰登山が盛んに行われ、様式も整ってきていたことが分かります。

戦国時代末から江戸時代初め、長谷川角行が人穴に籠もり、修験とは異なる仙元大日神を信仰する教えを説きました。これは、関東を中心に広がり、江戸時代中期、富士講へと発展していき、富士登山は急激に増えていきました。各地では浅間神社が祀られ、富士塚などをつくって登るなど、独特の信仰も生まれました。

明治以降の大社

明治維新後、神社は国家管理となり、新しい階位が作られ各神社に付与されましたが、当大社は駿河国一宮であったことから、明治4年5月14日に国幣中社、さらに願いによって明治29年7月8日官幣大社に列せられました。第二次世界大戦終戦後、神道指令、宗教法人法の制定により、当大社も宗教法人となり、名称を富士山本宮浅間神社と変更しました。しかし、旧官幣大社は大社と名乗る例が多く、全国千三百余社ある浅間神社の総本宮たるにふさわしい名称とするため、昭和57年3月11日富士山本宮浅間大社と変更しました。
大宮に鎮座し1千2百余年を経た現在、全国1千3百余に及ぶ浅間神社の総本宮、また、駿河国一之宮として、全国的な崇敬をあつめる東海の名社となっています。

参考文献

参考文献として主なものをあげます。なお、これらは富士宮市立図書館にあります。

書名 編著者/発行所 発行年月日
富士の研究 叢書1
序説・富士の歴史・補遺
井野邊茂雄/古今書院 S3/11/8
富士の研究 叢書2
浅間神社の歴史
宮地直一/古今書院 S4/3/8
富士の研究 叢書3
富士の信仰
井野邊茂雄/古今書院 S3/12/25
富士の研究 叢書4
富士の文學・富士の美術・富士の遺跡
高柳光壽・澤田 章・柴田常惠/古今書院 S4/3/28
富士の研究 叢書5
富士の地理と地質
石原初太郎/古今書院 S3/9/8
富士の研究 叢書6
富士の動物
岸田久吉/古今書院 S3/11/15
浅間文書纂 官幣大社浅間神社編 S6/3/30
浅間文書纂 浅間神社編/古今書院 S28/1/20
浅間神社資料(復刻版) 官幣大社浅間神社/古今書院 S49/2/20
富士講の歴史
江戸庶民の山岳信仰
岩科小一郎/名著出版 S58/9/18
富士講の歴史(オンデマンド版) 岩科小一郎/名著出版 H12/9/1